Ep.1 赤服白髭聖者 サンタの正体は、ずっと長いこと曾祖父なのだと思っていた。 『キーンコーンカーンコーン』 それを口にしたのは、今学期最後の鐘が鳴るのと同時。 私の呟きは重なると掻き消されてしまうくらいのものだったのだけど。 「はあ? 莫迦か、お前。サンタなんているわけがないだろ」 「ちょっと、れーちゃん! ユリはあたしに話してるんだから、横槍入れないでよ!」 御丁寧にも聞き逃さないでくれる人物が二人いるのだよね。 教師の話は右から左に抜かすのに、何故か私の発言には耳聡いんだな、これが。 まあ、でも。二人は単に口喧嘩が好きなだけなのだろう。 「ちゃん付けは良い加減やめろってんだよバカさくら!」 「何よ中学に上がった途端にその態度―! 急に男ぶっちゃってさあ!」 「もう二年目の冬だろうが! ユリはやめたのに何でお前は呼ぶか!」 うるさいな。また、いつも通りの口論が始まったよ。長いし音量も無駄に大きい。 ぎゃんぎゃん私の机の前で礼二と桜花が騒ぐ。お前ら犬か、と言いたい。 いや、もう何度となく呟いているのに全く気づかない。完全に二人の世界だ。 こうなると一応は喧嘩の発端である私も仲裁に入れない。 幼馴染みでこうなのだから他のクラスメイトからすれば尚更、手がつけられなかった。 「じゃあねー、百合ちゃん。また来年にね、よいお年をー」 「うん。そっちも。良い年末を」 人間というのは社会適合性を発揮するのに年齢は関係ないもので。 今となっては組分けの当日から二人の喧嘩を日常的に見てきたものだから、慣れきったものでクラスの背景として全く動じない。 教室の前側で繰り広げられる舌戦を鼻にもかけず、スイスイと席の間を通り抜けて横開き式のドアから流れ出てゆく。 私もそっちに回りたいなあ。 「よくやるよな、あいつら。関根、礼二にまたなって言っといて」 「うん、わかった」 「お前も付き合いが良いよな。んじゃ、バイバイ」 二人は年中こうだから、担任は始業から一ヶ月目で匙を投げた。 そんなせいで私以外に非暴力的に歯止めをかけられる人間は今、クラスには誰一人として存在しなかった。 皆、諦めの境地に達している。私も出来れば諦めたい。 礼二や桜花の友人とも代理で私が次々と年末の挨拶を済ませていった。クラスの七割と。 それでもまだ、二人はサンタ肯定派と否定派に回って論戦をしている。 二人とも、私がサンタと曾祖父を結びつけたことについては何も言わない。 普通はそれがどういう意味なのか、まず私に聞くものだと思うのだけど。二人は霧の彼方にいた。 駄目だこりゃ。目の前にいるはずなのに、北極と日本くらいの断絶がある気がする。 遠方にいる相手について、どれだけ想いを馳せようと連絡をとる手段がなければ何を講じようと骨折り損にしかならない。 いまや、口論が始まってから十分が経過している。 もうクラスには私と桜花と礼二以外の人影は残っていなかった。 多分、うちのクラスの学生は他の教室に逃避して優雅に歓談しつつ、年末最後の放課後を過ごしているんだろう。 耳の奥までねじ込んでくる二人の張り合いとは別に、時々笑い声が聞こえてくる。 「……さて、と」 教師の見回りが来るにしては、まだ完全下校時刻からは幾らか余裕があることだし。 何時までも真面目に桜花と礼二の顔を眺めているのも、首が凝って面倒だなあ。 『ガサゴソ。プチッ』 私は机の左側に掛けていた自分の通学用カバンから紙パックジュースを取りだして、付属のストローを差し込んで最初の一息は多めに吸った。 その分、チュルチュルと音を立てながら気圧の関係で上ってくる抹茶オレをゆっくりと味わって一服の休憩をとった。 仲裁のしどきを計りながら喧嘩の観戦をするのって、結構しんどいよね。 それでも二人を置いて帰らずに待っているのは、まあ原因が一応は私にあるからの一言に尽きる。 「本当によく、こうも長引かせられるよね……」 独り言はチャイムベル以上の騒音が支配している空間において、響くはずもなく。 私も何を言ったかのか自分の耳では聞き取れなかった。もう轟音だよ、飛行機の離陸音並み。 紙パックの中身が空になっても、終わりが見えないようだったら宿題でもしよう。 二人の小競り合いに付き合うには、宿題くらいに時間をとるものを並行してやっておかないと無為な時間を過ごしてしまっている気がしてならないから。 「お、おい。そ、そういうことでサンタは実在しないんだ、わわわかったか」 「く、うああ。れーちゃんにぃ、口で負けるなんてぇくっ屈辱っ」 「あー、ごめん全然聞いてなかった。それにさー、別に誰がサンタだって良いでしょ」 息切れを起こしながら喋る二人の言葉からして今回は礼二が勝ったらしい。珍しく。 私としてはサンタがいようといまいと、どうでも良いから一刀両断して席を立った。 「ひーじいちゃんがサンタだと思っていたのは小学生まで。今はもう思ってないよ」 二人とも最初の釦を掛け間違えたの。こっちとしてはお笑い種だよね、で済ませるつもりだったのに。 礼二が茶化して桜花が挑発するようなことを言うとは思わなかった。 「二人とも、喧嘩するなら帰り道でしてよ。……まあとにかく、もう帰ろう」 それならまだ歩きながらなわけだから家にはジリジリとでも向かっているのだし。 往来で騒がないほどには、少なくとも分別があるわけだからもうちょっと静かだし。 「うん。あ、そういえばユリのひーおじいちゃんって戦死してたんじゃないの?」 「そうだよ。……ほら、桜花だけじゃなくて礼二も準備する!」 御多分に漏れず、戦争で兵士としてその命を散らした。曾祖父の遺骨は、ない。 だからサンタになって帰ってくるのだと長く信じていた。それだけのこと、だよ。 |
Ep.2 ソロバン教室 一束二五七円のシキビを七束と一本三八六円のキクを三本、お祖母さんは花屋で買いました。そして次にコンビニで1ダース百十六円のローソクを五箱と一セット五十本入りで八十九円のお徳用サイズの線香を十七箱買いました。──さて、合計金額はいくら? 『パチパチパチ……パチンッ!』 「センセー、コンビニのセンコーってそんなに安くねーよ。んで、四七九三円!」 「ぶっぶー。惜しかったわね、ヨースケくん」 余裕満々で口上を垂れておいて、提示した数字は外れていた。よくあることだ。 せっかちな陽介の後をつくようにして、耕司の黒縁眼鏡が静かに逆光を放つ。 「五千五十円……です」 「ぴんぽーん。他の子はどうかしら?」 「センセーッ、チカのソロバン四九三四えーん!」 他にも続々と正解者と誤答者が自分で弾き出した結果を叫んでいく。どの声も黄色い。 間違っていても威勢が良いのは小学生特有のテンションだな、と思う。 「あらあら……今回は間違い続出みたいね、難しかったかしら。ユリちゃんはどう?」 先生が私に話を振った。これもよくあることだ。私はこの中で一番の年長者だから。 「五千五十円です。問題ありません」 「そう。さすがうちの古株ね。じゃ、またよろしくね」 「はい。……陽介、お前シキビの数を六束で計算しただろ」 「えーっ。そんなの、わかんないだろユリ姉」 「二五七円分、今の答えに足してみろ。正解になるから」 「ヨンナナキューサン、たすニイゴーナナ……あ、本当だ」 パッと満面の笑みが咲いた。自分で確認して、漸く私の指摘通りだと納得したらしい。 「ユリちゃーん。あたしのも見てぇ」 「はいはい。智佳はローソクだよ。百十六円足してごらん」 智佳は素直にわかった、と返事をしながら指で珠を弾き、こちらもすぐ笑った。よしよしと褒めていたら何時の間に距離を詰めたのか耕司が横に立っていた。 そうは言っても、小二と中二だ。私が正座していても軽く見上げれば目線が合う。 「ん、どうした?」 「ユリちゃん、『はい』は一回だよ。親に教わらなかったの?」 うわっ。また耕司の奴、難しい言葉を覚えたんだな。この年で教わるを理解してるとは。 まあ最近の小学生は努力値とか種族値まで振って素人の年上ゲーマー負かすと言うけど。 「余裕だなあ、耕司は。いい姑になれるね、保証する」 「シュートメって婆ちゃんのことだよ」 「たまには流されときなよ。って、さすがの耕司も社交はまだ知らないか」 「ユリねえー、ボクのも見てよ!」 「はいよぉ。……耕司は聡いけどユーモアが足りないな。それを陽介に習うと良いよ」 なんのかんのと耕司の揚げ足取りを受け流して、袖を引く腕に連れられるままに、そう狭くはない教室の中をぐるぐる回る。結局、私の立場は変わらない。他人の世話係だ。 学校が終わっても、ソロバン教室で年下の面倒を見なきゃならない。終業式が済んで、やっとあの二人のお守りからは解放されたんだけど……まあ、これも今日で今年は最後。 先生と二人で間違いを訂正し終えた頃には、ちょうど時計の長針が短針に重なっていた。 もう正午か。教室の半分のメンツが間違えていたとはいえ、時間がかかった。間違いを探して再計算しなおす間の雑談が今日はとみに長かったせいだろう。年末だから。 だが。何はともあれ、これで今日の塾はお開きとなった。後は例年通りクリスマスケーキをもらうだけだ。たったそれだけのことで、目を輝かせて年末最後の塾に子供は来る。 「はい、ユリちゃん。悪いわね、いつも手伝ってくれているのに皆と同じもので」 「皆と同じで良いですよ。それに、もともとは私が勝手に始めたことですし」 桜花と礼二については毎日面倒をみているから嫌気もさしてきているけど、本来の私はきっと誰かにかまってやるのが好きなんだと思う。だから、まだ小学生の中にいる。 いい加減ソロバンなんてやめて、一緒に普通の塾に行こうとあの二人に誘われても断り続けてきた。同い年の二人よりも年下の面倒を見るほうが楽だというのもある。 でも、一番の理由はこの雰囲気が和やかだと感じられるから。普通の、高校受験用の塾は四六時中、試験を受けているような張り詰めた空気はきっと息苦しいように思う。 それと比べれば此処で伸び伸び過ごせるほうが良い。両親も、ソロバンを始めて以来、私の計算力がかなり高いままで維持されているから通うのをやめろと言わないし。 「今の状態に満足してますから。楽しくやって成績が上がるんだから親も万々歳ですよ」 「あら、そう? そう言われると先生も嬉しいわ」 別に大手を振ってというわけでもないけど普通の塾よりは稽古代も安いし、時間の都合があれば先生は漢字や熟語の添削もやってくれるから、かなりの得をしているのは事実。 多分、先生も私と似たようなもので人に何か教えるのが楽しいんだろう。いつもニコニコしていて、大概の質問にはどんなに突飛でも気を悪くせずに答えてくれていた。 ああ、でも。私は何度かそんな先生の顔を曇らせてしまったことがある。多分、他の大人たちに聞いても言葉に窮した。私は子供すぎて、何故困るのかも理解しないままに。 私は年相応に子供らしいバカだったのだよなあ。陽介のことを悪く言えたもんじゃない。 思わず眉間のあたりを揉んでいると先生が別の意味にとったのか、ある提案をした。 「ねえ、ユリちゃん。明日はうちでお昼ご飯、食べない?」 明日? 何事だろうか。日程的に無理だということではないけど、既に先約がある。 「ほら、お山の法師像。あれを明日、おじいさんたちと夕方まで掃除するんでしょう」 そこまで説明されてようやっと私は合点した。先生の家のほうが自宅より法師像と近い。 「はい。じゃあ、お言葉に甘えて。祖父母にもそう伝えておきます」 |
Ep.3 法師像の掃除 「おっはよーう、ユリちゃん!」 「手伝いに来たぜ!」 「……うん、右に同じ」 ん? あれ、今日は26日だよね。塾は昨日で終わったはず。日付、ちゃんと合ってる? 何故にクリスマスできっぱり年末最後のお別れをしたはずの相手が目前にいるのだろう。 「おお、よう来たなあ。よう来たでなガキども」 「ほんならさっそうてごをしてもらおうか。水汲んどいで」 え、じいさまとばあさまよ。何よその、さも当然といった平坦なリアクション。まずは驚くものじゃないのか普通。それとも何か、私の知らないとこで示し合わせていたとでも? 「はーいっ。行こう、ヨースケ!」 「へんっ。オレ一人でバケツくらい持てるってのー」 二人なのにわいわいと騒がしい。縮小版の桜花と礼二があそこにいる。 でも、よっぽどかミニサイズのほうが役に立ちそうだ。その証拠に言い合いながらも仲良くバケツの持ち手を二人で握って水道までの道のりを歩いていっているし。 しかし、何故に三人がこの場にいる? 私は祖父母にソロバンの先生が昼食を用意してくれるから今年は往復が楽だと伝えたが、あの子たちが来るとは一言も口にしてない。 私というパイプ以外に、あの子たちとうちのじいさまたちを繋ぐものはないはずだ。槍の雨が降るとかいった災害でも起こらない限り接触の機会があるとも思えない。 よその子供とうちの年寄りの間にあっさり関係成立。それが釈然としない。 祖父母がタワシで法師の石像を擦りだしてもまだ私が唸っていると、耕司が横に立った。 「ユリちゃん、僕らが居たら邪魔? 迷惑?」 「別にそんなことはないけど……なんで来たの?」 私が見下ろし、耕司が見上げる格好だというのに優勢なのは耕司だ。どうしてだろう。 仕事始めの時の職人と同じように腕を組んで、耕司は私よりも遠くの空を見上げた。 「昨日、教室で聞いてたから。あの二人は親に言われて来たらしいよ『お礼しとけ』って」 あの二人は。特に強調された部分ではなかったけど、多分その説明の真意は。 「そっか。耕司は自分の意志で来てくれたわけだね、ありがとう」 私がそう口にしても、相変わらずそっぽを向いたままだったけれど。やや時間が経つと。 「うん。ユリちゃんは聡いから、僕好きだよ」 「……んー、小学生がそこまで言っちゃうか」 相手のことを聡いと評したのは昨日、私がしたことだけど。あれは年上が年下を褒める言葉だから、年下が年上を褒めたりするのには用法的にあまり正しくないかな。 「これぇっ! そこの二人もさぼっとらんとこっちきぃ!」 「うん、わかってる。さあ行こう、ユリちゃん。雑巾はこれ。まず片面だけ使うんだよ」 段取りの良すぎる耕司に手を引かれ、法師像の元へ駆けた。え……何かこれ、違わない? 法師像の元へ来てからというもの、終始私はああだこうだと耕司に指示を飛ばされた。 「へー。ユリが手綱握られるとは珍しいねえ。いつもは握っとるほうなのに」 「だのう。あー、礼二くんと桜花ちゃんだったかのう? よくユリがどうどう言うとった」 馬を例えに使うのやめてくれない。なんかイヤだ。馬って鼻息荒いし。あいつらは全くその通りのじゃじゃ馬だけど私は大人しいほうだよ。子供たちだって二人ほどじゃない。 「……って、言おうとすると消えてるんだよなあ。うちの家族は」 自分と子供たちの擁護論を展開しようと思って顔を向けたら、掃除道具と共に姿を消していた。多分、汚水を捨てにいったんだろう。もう太陽は南中してるし、次は昼食かな。 「だれだ、それ? ユリ姉、そいつらペットなのか」 「ユリちゃん動物のお世話してるんだ。犬? それとも猫? 兎だといいなあ」 「ある時は犬、またある時はイタチ、しかしてその実体はというと、ただの中学生」 うーん、子供って残酷。何も知らないだけに的を射ているというような気すら起こせる。 あまりの無邪気さにお姉さん嘘ついちゃったよボブ、と一人ごちてみた。真実って案外こういう何も考えずにポロッと出た言葉に含まれてるように思えるんだよね。かなり偶に。 「どゆことー?」 「つまりは、ユリちゃんの友達でしょ」 「うんまあ一応。あれが親友なんだよねえ。あれでも一番の友達なんだよなあ」 冷静に考えてみると、毎日どうでもいいことで喧嘩してるのが親友なんて大変だ。 「そんなにイヤなら他の人にすれば?」 「え? 別に嫌ってはないよ。ただ、付き合うのは大変だけど」 扱いは難しいけど慣れてるし。わざわざ無理をしてまで調子を合わせてるわけでもない。 一人で遊びたいときはそれぞれ勝手に行動を取るし、都合が悪いっていうならちゃんと考慮する。連絡さえつければ、気楽なもので平常時はこの関係を気に入っている。 喧嘩をしてない時のほうが珍しいけど。それも一日一回の大喧嘩だからどうにか。 「……結局、ユリちゃんはその二人が好きなんだ」 「うん、そうだね。親友だって認めるくらいだから好きだよ」 駄目押しに頷いてみせた所で、祖父母が戻ってきて昼にしようという宣言がなされた。 清掃の手を一旦止めて、先生の家へと向かう。先頭に立つのは子供たち三人だ。通い慣れた道だから迷うはずはない。ソロバン教室は、先生の家の一室で開かれているのだから。 普段は週に一度、日曜日の朝から正午まで。しかし今日は平日で、昼下がり。何年と歩いてきた道とはいっても通りすがる人や影の落ち方が違えば様相に少し変化がつく。 いつもと同じのはずなのにちょっと違和感がある。目線の低い子供なら尚更だろう。陽介と智佳は時々じーっと一点を見つめて動かなくないのを耕司がつついて進めさせる。 そんな塩梅で先導をさせていたものだから、到着は遅くなったが先生は怒らなかった。 「ああ、やっぱりね。聞いたら手伝いに行くと思っていたわ、この子たちは」 にんまり顔の確信犯が玄関に居た。その奥の窓辺からは曼珠沙華が鮮やかに笑っている。 |
Ep.4 冬期課題退治 二学期が終わりソロバン教室も仕事納め、祖父母の手伝いも一日でカタがついた。さあ、これで本腰を入れて宿題に手をつけられる。年末年始はゆっくり過ごしたい。今日中にワークを全部終わらせよう。冬休み前に立てていた計画に沿って、私は順調に進めていた。 「宿題が済んだら……そうだなあ。駅近くまで遊びに行くのも良いかも」 遊びにでかける時は行き当たりばったりで動き回ろう。店には何が並んでいるかな。課題を済ませながらの合間に期待に胸を膨らませて私は自分を鼓舞していた。だって、そうでもしないと自分の部屋にほとんどずっと籠もっているなんて私には耐えられない。 今だって、音量は小さくしているけどCDをかけて気を紛らわせる。勉強中にふと集中力が途切れた時に訪れる静寂が苦手だし、こうしてずっと部屋にいると気が狂いそうで。 『コンコン』 「ユリ、まだ寝ないの?」 「んー。あともうちょっとだから、今日中に終わらせるよ」 ノックから数秒、お母さんが心配する声をかけてきた。返事をすると、去る足音がした。 国語、数学、社会、英語と来て最後は理科。あとは大問を一つ残すのみ。丸付けはまだ済んでないけど、もともとそうなるだろうと思っていたし。明日、全部やれば良いか。 ついには理科のワークも終えて、予定をこなした充実感と疲労感で私はベッドに俯せていた。日付変更より一時間あるとはいえ普通ならもう就寝中。でも、まだ寝られないよ。 『ドタバタゴンッ……タタタ、バターン。ごろり』 「……ん? なに、この漫画的な騒音」 途中で一度、こけて頭を打ったような音と悲鳴が上がったような。しかも、最後は右。 ベッドから起きあがると左手には窓が、右手にはドアが普段と変わらず存在していたわけだけど。左、こっちは問題ない。いつもの夜と同じでカーテンも閉められている。 問題は、ドアのある右。この時間帯にいるはずのない生物が転がっていた。 「おーい。あんた、今が何時だかわかる?」 「あいたたた。うー、頭痛ぇ。か、壁にぶつけたかー」 「答えろよ、てめえ。ちゃん付けで呼ぶぞ」 あとお前がその脳天ぶつけたのは壁じゃなくて床だ。今以て接地してる、そこ。 「しっかりしろー。寝たら凍え死ぬぞ廊下だから」 ガンガンと軽く頭を握り拳で殴ってみたが平気らしい。というか、正気じゃない。 「おーい、礼二。れーいーじ。五秒でしゃんとしないとドタマかち割るよ。れーちゃん」 ゆっくりとカウントしたのに起きない。殴られても文句はないよね、特に同意は求めてない。じゃ、遠慮なく渾身の一撃……えーと、まずは猛虎襲来と飛燕脚でもかまそっか? 「んあ? あ、ユリ。ユリ……ユリィィッ、好きだ! ちょっと一緒に来てくれ!」 真夜中に何処へだ、この野郎。私はアッパーとローで親友を室外へ蹴り出した。 また、つまらんものを蹴ってしまったなあ。まだ、蒟蒻のほうがマシだったか。そう思いつつも友情という物を呼び起こし、暖房のかかってる部屋へ引き戻してやった。 いや倒すべきは永久不滅の天敵たる蒟蒻ではなく今は酒かもしれない。なんかさっき、つまらんものの口から臭気がした。ワインかウイスキーだか知らないけど、とにかく酒。 「最初に断っておくけど。私今、機嫌が悪いよ。それわかってる?」 ようやく宿題にカタをつけてベットにダウンして疲れをとっていたというのに。ちょっとした休憩時間でも誰かに邪魔されるのって大嫌いなんだよね、私は。 どこで誰と楽しく飲んでようと勝手だが私の休息を妨害することだけは許さない。 「それとも、もう一発くらっとく? なあ、れーちゃん」 怒りの前には相手への配慮を忘れてしまうもんだろう。嫌みのちゃん付けだぞコラ。 笑顔で凄んでみたのだが、失敗だったかもしれない。酔っぱらいに判断能力を求めても無駄というものか。へべけれ礼二は、にへらと笑って聞いてもないことを喋り出した。 「聞いてくれよユリー。ハギくんとこで気持ちよく酒飲んでたんだけどさあ」 「うんお前酒に呑まれてるな。飲んだら乗るなよ、飲んでも呑まれるなよ」 「俺、自分の足で走ってきた」 それは顔に書いてある。顔が全体的に赤いし鼻水がさっきから出てる。途中で風邪引いたな、きっと。無言で箱ティッシュを差し出すと顔も背けずに盛大にかんだ。背けろよ。 「あっそ。酒飲んだ後で自転車乗るのも法律違反だからな、そこの未成年」 「んでなー、二人で飲んでたらソーキさんが来て『男二人で酒とは寂しい奴らだな』って」 「二人寂しく酒の海で溺れてればいーだろ。なんで私のとこに来る」 「な! だから一緒にハギくんとこ行こう!」 『ガシッ』 お前はクラブのねーちゃんよろしく私に酌でもさせる気か。単に女って理由で私に。本気で誰か殴ってくれないかな、こいつ。黒帯所有者とかに。身近な存在だとうちの兄。 唇の端をひくつかせていると音もなく新たな侵入者が部屋に滑り込んでいた。 「あらあらまー。手まで握っちゃってお熱いこと。はい百合、これ置いておくわね」 「ノック……いや、それよりも。母さん、娘が困ってるのに平然と帰らないでくれ」 いつの間にいたんだ。それがわからないのは、ノックもせずに部屋に入るからだ。プライバシーの侵害を一番よくするのが母親っていうのは最早セオリーなんだろうか。 酔った勢いでふざけて告白された状況じゃあ侵害も何もあったもんじゃないけども。今現れたのが父さんだったら礼二の手を引き剥がしてくれただろうに。自力で解けないよ 「薬も用意したし、酔いが醒めれば何とかなるわよ。じゃ、介抱は自分でしてね」 盆をひらひらと振って無情にも母さんは部屋を後にした。情けをかける優先順位を違えてる。酒が入って勝手にいじけてる、まるで泥棒みたいにうちに押し入った奴なのに。 「……ん? ちょっと待て、礼二。あんたどうやって上がったんだ? 玄関の施錠は」 「植木鉢の下にあった合鍵使った。で、来る気になったのか?」 課題より先に退治すべきものがあったよ。そこに直って歯ァくいしばれ、不法侵入者。 |
Ep.5 彼岸花と石碑 ソロバン塾の先生の家で見かけた、一輪の赤い花。目を離せずに注視していたら先生が何処でそれを摘みとったのか教えてくれた。二日前の情報を今日、確かめに来た。 正直なところ少しだるい。昨日は真夜中に蹴り技を繰り出したし礼二の奴を泊めてやるハメになったし。リビングのソファまで連れていくのも一苦労だった。私一人じゃ二階の自分の部屋から一階中央のリビングまで階段とかの問題で連れていけないから、夜遅くまで起きて勉強していた兄に頼みこんでやってもらったけど文句言われた。 あの人も私と同じで、長時間黙々と勉強していると沸々と怒りがこみ上げてくるタイプだからなあ。いらつくのも理解できるけど、嫌みが私以上にねちっこくて疲れる。 「あー……思い返しただけでも頭が痛くなってきった」 目覚ましの設定よりも今日は二時間も遅く起きてしまったのは多分、そのせいだ。家にいたくないな、少なくとも礼二が自分の家に帰るまでは。あいつがうちから消えない限り、顔を合わせるたびに兄に理不尽な文句を吐かれるだろうから。行動パターンが同じだけに先読みできてしまう。今頃朝食を運んだ母さんが軽い愚痴を聞かされているんだろうな。 そんな煩わしさもあり、朝から神社の境内に訪れているのであった。 「まあ男なんてのはほっとこう。それよりも……八幡神社の巨木」 大きな桜の木の下で自生していたのだと、先生は言っていたけど本当の話だろうか。 別に、どんな花だって冬だろうと温室でなら幾らでも育つけど。もしも野性の花だったら。 「あ。あった……花が咲いてる」 社殿の裏側には一本の巨木がある。その根本近くで曼珠沙華が大きな顔をしていた。どれもが皆、しゃんとして立っている。後は散るだけといっても、枯れる日は遠そうだ。 しかし群生している中のものの一つは顔がもげていた。おそらく、先生が手折って持ち帰ったからだろう。 冬の、どこか薄ら暗い寒空の下で見事なほどに鮮やかさを放つ曼珠沙華。 それはこの冷気の中でも生長してみせるほどの力強い生命力を暗示すると共に禍々しさをも放っていた。その赤い花が持つ別称は彼岸。此岸の向こう、あの世を象徴するもの。 「そういえば昔、じいさまに叱られたっけなあ、これで」 綺麗だから、祖母のようには黒染めされていない老髪には合うだろうと思って、茎から滴り落ちる白濁も拭わずに祖父の頭に挿そうとしたら酷く怒っていた。 彼岸花の白い液体には毒性がある。それを理由にして私を窘めていたけど、本当は別の理由だったんじゃないかと思う。触れたくらいで死ぬような毒が自然に存在するだろうか。 多分、それはない。曼珠沙華は食用にもなる、と誰かから聞いたことがあるし。 恐らくは瞬間的に結びつけてしまったんじゃなかろうか。頭にあの花を挿すことは死人の証。死を模すことは、自らの死期を早めることになるのではないか。 曼珠沙華の別名を知り彼岸の意味を学んだときから、ずっとそう考えていた。 何の根拠もないけれど。サンタは曾祖父なのだと信じて疑わなかったように。 長いことしゃがみこんで観察していたけれど、私は帰る決心をした。 もうすぐ十時くらいだろう。いい加減に礼二も起きて家に帰っているはずだ。そうではないにしても、起きて三時間もすれば如何に兄が起きがけからイライラしていようと収まっているだろう。熱しやすい分、冷めやすい。私もアレも長時間むかついていられるようなタイプじゃないからだ。嫌みも少しは聞きやすくなる。 そう算段がついたから、私は立ち上がった。でも、少し感覚がない。 身体の体操を何度かやっていれば戻ってくるかと考えて屈伸をしていると、ちょうど目線が石碑の天辺と同じ位置に来た。普段と変わらず、人名が刻まれている。 祭りの時と正月くらいにしか神社の境内へ入る機会がないから、今まで何のために立てられたものであるのかなんて考えたことがなかったけど、これは何なのだろう。 「……神社を修築する際に少額でもお金を寄付した人々の名というのか妥当かな」 ちょっと前まで、この八幡神社は修築工事をしていた。その費用の大部分は寄付によってなされていたらしいことは修築後に新しく立てられたツルピカの石碑が明言していた。 金何万の下に誰某とだけ彫られた石碑が山腹にある神社の階段脇に段々として聳えており、階段の一段目から始まるそれらは嫌でも目に入ってきた。 昨今の日本は宗教に関心を払わない、とクリスマスも正月も楽しむ様を引き合いに出して嘆く人もいるけど、寄付を募れば何百万もポンと出す御仁もいたという証。自分の家の宗派は何なのかも知ろうとは思わない私にすれば、そんな金があるなら人道支援とか最もらしいことに使えば良いのにな、という具合。外から見ていてわかるのは代々残されてきていただろう茅葺きの屋根が金キラになったことくらいだから、尚更にそう思う。金属じゃなくて藁を使えば、材料費が浮いたはず。 よくテレビで税金が無駄遣いされているとか報道されるけど神社仏閣は咎めがないよね。 景気が悪いっていうなら、神社の屋根も質素なものになるものじゃないの? それとも、公共機関じゃないから叩いてもしょうがないってことなのかな。 「考えてみれば、寺も無駄に道具が豪奢だったなあ」 世紀末に亡くなった曾祖母の法事で葬式の時に経を上げてもらった坊さんの自宅も兼ねたお寺に出向いて、通された部屋には曼陀羅の掛け軸と梵字の書写された屏風とどっしりとした畳机があった。どれも旧家的要素のある、裕福さを示す家具があった。檀家の人々が必ず通される部屋なのだから、それくらいは当然かもしれない。だけど、寺の御堂はそれを上回るもので、天井からは金色に輝く吊り物があった。 どこの宗教も生活が苦しい者を救うことを奨励しているのに、清貧と矛盾しない? まとまった量の金の塊があるってことは、相当な金を貯め込んでいたってことだよね。 いや、やめよう。些細な疑問は考え出したらキリがないし、何の解決策も浮かびそうにない。長時間、屈伸しただけで終わるのが関の山。本当にもう帰ろう。 「さーてと……ん? 志那、事変……出兵記念碑?」 さあ階段を降りよう、という時に視界に飛び込んできた四文字の漢字。それは、今までの妄想を吹き飛ばした。朽ち果てる石碑に刻まれているのは、戦争の記録だったのだ。 |
Ep.6 ノスタルジー そういえば確か、駅近くには流行遅れの映画館があった。 『プシュー、ブロロロ』 扉の閉まる音が止まないうちに、車体は低い唸り声をあげて駆動し始めた。 「あのさ。バスに乗った後で言うのも悪いけど……今もやっているとは限らないよ?」 「別に閉まってようが文句垂れないわよ、れーちゃんと違ってね。他に行くアテもないし」 「開いているにしても、目当てのものが見つかるかどうかだし」 「だーいじょうぶ、もしそうだったら駅まで行って遊ぶだけの話だもん」 それのどこが大丈夫? 桜花の言い分としては、それはそれで構わないってことなんだろうけど。私としては今日中に最後の課題を済ませたいところなんだよね、本気で。 「はあ……どうして毎年、社会の課題って変なものばっかりなんだろ」 「あー、それ皆絶対に思ってるよね。昔の映画なんて探すだけでも、一苦労じゃん」 昔の映画を鑑賞して当時の時代背景について書け、なんて中学生に要求しないで欲しい。 単なる感想文ならまだしも、映画の雰囲気で時代を読むなんて無茶だよ。物事を無理にこじつける能力でも育てたいんだろうか。アンタが空気読め、社会科教師と言いたい。 「うん……うん、そうそう。え、ああ。今回は三人なんだ。うん……あ、できそう?」 『ピッ』 乗車前からずっと通話をしていた礼二が、ようやくケータイを仕舞った。それを見計らってから余分に取っておいた乗車券を差しだし、ちょっとした探りを入れてみた。 酔っぱらってうちに突撃をかましてくれた時に名前の挙がった二人じゃなかろうな。もし、そのうちのどちらかだったらケータイをひったくってでも文句をつけてやる。 「礼二、電話の相手って誰?」 「それに最後のできそうって何が? れーちゃん、プラモでも頼んでたの」 「宿題始末の超強力な助っ人。どうにかなるぜ、これで。映画館、多分開けられるってさ」 どうやら、私が想定していた相手ではないらしい。でも、“アキくん”と“ソーキさん”と同じような気がする。礼二の妙なツテが今回も発揮されていたらしい。こいつが酒を仕入れているのはいつもソーキさんからなのだということは、二日前に自白済みだ。 ゆえに、その助っ人というのも怪しい。ロクでもない大人なんじゃないのか。 「れーちゃんの知り合いに権力者なんていたんだ?」 桜花の疑念には私も賛同する。さっきの口振りは、閉鎖している映画館をなんとか開けることができるという意味が十分にとれる。一介の中学生に、そんな芸当が出来る知り合いがいるとは普通考えられない。下働き程度じゃ到底できっこない行為だろうに。 それに、ある程度の影響力を持つ人と礼二の都合次第で連絡が簡単につくものなのか。 「ま、着いてからのお楽しみだ。その時に助っ人の紹介もするからさ」 「ふうん。まあ、あたしは映画鑑賞でも駅ブラでも構わないけどね」 「えーっと、待ち合わせたのは此処らへんなんだけど……あ、いた。おーい!」 先頭に降り立った礼二の足が赴くままに、私と桜花は駅近くの商店街を抜けて今は鯛焼き屋の端にいた。その左手の奥まった所には寂れた神社がある。 こんな人通りの多い場所にもあるものなんだなあ。曲がりなりにも聖域なのに。 そんなことを思っていながら桜花が人数分の鯛焼きを買ってくるのを待っていると礼二の待ち人が来たらしい。手を振って遠くの人影を呼んでいた。 「シキさん、どうだった? 映画館の前を通ったら、窓とか埃被ってたんだけど」 「はい、これユリの分。礼二のはこっちで、袋のは助っ人さんに渡しといて」 現れた助っ人に礼二が声をかけるのと同時に桜花が焼き菓子を私に差し出した。 ちょっと待ってよ。一度に三つのものを目の前に出されたって手は二つしかないんだから受け取れないよ。それに私と礼二の鯛焼きを重ねて持たないでよ、危ないから。 一度に二つのことは対処しきれないので、まずは自分の鯛焼きを食べてなきゃ。ということで、紙袋入りの鯛焼きを渡すべき人の風貌への見解も後回し。 「問題ないよ。運良く映画館の鍵も借りられたし、幾つかテープも館内にあるようだった」 「あの、今日はありがとうございます。これ良かったらどうぞ、鯛焼きです」 礼二の分は適当に投げ渡しておいて、失礼には当たらない範囲で“シキさん”という人物を頭から爪先まで検分してみた。 スーツ姿にネクタイを締めている、平均的な日本人的な顔立ちをした人だ。でも、一目見て感じたロクでもなさは拭いきれない。やっぱり、頭部のウェイトは重いよ。 「あ、これはどうも御丁寧に。ちょうど小腹が空いていたんですよ、ありがとう」 他の部位は所作も含めて何から何まで申し分ない。でも、長髪というのは、ねえ? これで脱色やワックスでいじっていたらどこのアイドル崩れなのかと眉を寄せていたところ。私は歌って踊れるアイドルに興味ないし。むしろ、どうしてあんなのに熱を上げられるのか理解できないなって感じるタイプだから、ロンゲは遠慮したい。 黒のストレートで、まあ地毛だろうから嫌悪感までは感じはしないけど。普通に引くよ。 「本当に映画館を開けられるんですか? 随分前に閉館したみたいでしたけど」 「ああ、それは大丈夫です。偶然が重なって、今日だけ使えることになりましたから」 シキさんの大丈夫って言葉ほどアテにできるものって他にはないかもしれないなあ。 無事に件の映画鑑賞を終えてみると、そんな言葉が自然と口をついて出てきた。普通なら不可能なことを偶然と折り合いだけで可能にしてしまう強運の人って実在したんだなあ。 「今日は何から何までお世話になりました。何のお礼も出来なくてすみませんが」 礼二の紹介でやってきたシキさんは、ちょちょいのちょいでなんでもこなした。一度も触れたことがないという放映の機器類も適当にいじっているうちに動かしてしまうし。 「気にしないで。私は礼二くんに借りを返しただけです。でも、あれで良かったのかな」 「あー。まあ、所詮は作り物ですし。あれくらい突飛なほうがウケるんですよ、きっと」 流されたイタリアの戦争映画は、兵士が現地の女性と家庭を持つ話だった。あり得ない。 |
Ep.7 餅つきと仏壇 本日、十二月三十日。母親も仕事納めを昨日で終えて、家族全員が揃う日だ。 いい加減に私も年越しの準備を手伝わなきゃいけない。受験生であろうと例外なし。兄はゴネたが、母の無言の圧力と祖父母のしょんぼりした目には勝てずにいた、 大掃除は大晦日の朝に始めるとして、今日は新年に食べる雑煮用の餅をつく。それさえ済めば、後は自由なものだ。家族総出でこなせば三時間とかからない。 「兄さんってさ、文句言うくせには積極的だよね」 「うちには子供に拒否権なんて与えられてないからな。素直に従ったほうが速い」 それは確かにそうだけど。料理の好き嫌いを言えば次から飯は作ってくれなくなりそうで、素焼きの南瓜も涙目で食べたなあ。その横で兄は椎茸を一ミリずつ食べていた。 「良いことじゃないの。おかげで偏食にならずに済んだでしょう」 「いや、好き嫌いはちゃんとあるからね母さん」 「同感だ。もっと言えユリ、今なら反論されない」 「いやいや、口の達者さでは兄さんのが勝ってるから兄さんやってよ」 「俺は受験があるから封印中なの。お前はそこんとこ全開だろ」 「えー。今でも理不尽さは健在だよ」 母さんの前でこんな応酬が出来るのも目の前に祖父母が立っているからだ。母さんは嫁入りした人だから、この二人がいる前だと大きな顔が出来ない。叱りすぎると逆に窘められるから。そんなわけで、ある意味この現状は私と兄にとって解放感すらあった。 父さんはさっきから一人で黙々と餅の中央にあんを置いては包んでと順調に数を増やしていっている。それに比べると私と兄は作業効率は合わせても父さんより低いし、失敗作も作ってしまうから余計に出来上がりの数が減る。 「あ、しまった。あんこがはみでた」 「もう五つめだよ。兄さんさー、積極的なのって失敗したのを食べられるからだろ」 うちの餅づくりルールには丸めるのに失敗したあんこもちは失敗した奴が食べなくてはいけないという決まりがある、適用されるのは私たち子供くらいなものだけどね。 でも、なまじっか形の良いお餅よりも失敗した奴のほうが作りたてな分美味しいんだよね。あんの位置が良くないだけで味は遜色ないんだし。 「んー、しかしなあ。毎年やってるのに俺もお前も下手なままだよな」 「うぐっ……でも、私は一番やってる回数が少ないんだから仕方ないってば」 「母さんは一年目で今のと同じのを作ったで」 ぼそりと父さんが心臓を貫く一言を吐いた。よ、余計なことを……! 「七年以上やっても覚えられない奴もおるが」 それって確実に私と兄貴のこと言ってるよね、父さん。何の嫌み? 出来た餅の幾つかは仏壇に持っていった。曾祖父と曾祖母に供えるために。 餅と茶を仏壇に供えた後で鐘を鳴らして両手を合わせ、瞑目する。特には何も祈らない。 手を合わせて瞼を下ろしているときに何か願い事を唱えるのは氏神信仰というやつだそうだ。でも、私はまだそんなに浸るつもりにはなれないでいた。 仏壇の中央に置かれた位牌に長々と書かれているのは、曾祖母の死後の名だから。 西暦が二千年代に移り変わるよりすこし先に寿命で逝去した。死亡場所は風呂場。病気は亡くなるよりも少し前に治していたから、死因は寿命だったらしい。 死体となって引き揚げられた曾祖母の顔は安らかなものだったと説明された。祖父母に亡くなった、と聞かされてから暫くしてやってきた検察の後ろ姿は今も忘れられない。 私が初めて遭遇した身内の死だったから、起きた波紋も大きかったのかもしれない。 思い出そうとすれば、今だってはっきりと肉声が耳の内で響き渡る。まだ写真を見なく立って顔をはっきり思い出せる。よく着ていた上着の柄だってわかる。 まだ、忘れたくない。そんなくらいに私は曾祖母が大好きだった。 「ユリ? どうかしたのか……ま、いいか。ちょっとどけよ」 なかなか私が戻ってこないのを怪しく思ったらしい兄が仏間にまでやってきた。此処まで入ったなら一つや二つ手を合わせておくべきだと思ったのか、場所を譲った私の横に膝をついて鐘を鳴らした。するとすぐに立ち上がる。このままさっさと勉強に戻りそうだ。 「なあ兄さん。どうしてひいばあちゃんは、あんな嘘を吐いたんだろう」 「あ? あんなってどんなだよ。お前代名詞の使用回数多いぞ」 「サンタの正体」 「……あー、あれな。あれはホラ、お前が親に直接欲しいもんをせびろうとした時にだな」 ぬいぐるみなんかじゃなく、生きた電気鼠が欲しいなんて無茶苦茶なこと言って散々父さんたちを困らせてた時に、ひいばあちゃんがサンタの正体はお前のひいじいちゃんだよ、って。 「で、お前がひいじいちゃんは戦争で死んだじゃないかって喚いたから、嘘が増えた」 「うーん。そこまで言われても、まだ全然思い出せない」 「そうか。それで毎年のプレゼントは戦場からの贈り物ってことになったんだぜ?」 「由来は忘れたけど、ひいばあちゃんの理由付けはちゃんと覚えてるよ」 戦死した場所に遺骨と一緒に残っている曾祖父は一年に一度、聖夜に戻ってくる。 本当はお盆のときに帰ってくるはずなんだけど、死んだ場所が異国の遠い地だからうちまで戻ってくるのは大変らしい。盛大な遅刻をするお詫びに、曾祖父は曾祖母に子供に一つずつ贈り物をすることを約束したのだと。戻ってもまたあちらに行くのはだからだと。 「ああ、あれな。俺がまともに突っ込んでもひいばあちゃん、動じなかったよな」 「うん。彼岸からの贈り物は目に見えないものだって教えてくれたね」 幽霊は玩具なんて用意できないじゃないか、という兄の反論に曾祖母は上手い返しを口にした。 物質的なものは確かにお前達の両親が用意した。でもね、それに健やかな成長と安穏として生きられる力を曾祖父は箱の隙間いっぱいに詰めてくれるのだよ、と。 |
Ep.8 煩悩炸裂除夜 結局、戦争をしてまでお国が守りたかったものってのは何なんだろう。何のために曾祖父は戦死をしなきゃならなかったんだろう。サンタクロースのモデルは聖者ニコラウスだということと授業で世界大戦のことを習ってから、そう思っていた。 謝るんなら、目の前には誰もいないラジオの収録現場じゃなくて曾祖母の前でしてくれれば良いのに。歴史が勉強科目として増えた年のクリスマスから、ずっと思っていた。 「……え? ごめんユリ、聞いてなかった」 「あー俺も。何か言ってたのか?」 「いや。なんでもないよ。たいしたことじゃないし」 どうでもいいことについてはしっかり耳にまで届くくせに、私が聞いて欲しいなと思っていることに限って聞き逃してくれるのだよなあ。まあ、だからこそ独り言として呟けるんだけど。聞こえてたならそれはそれで何か反応が返ってきたほうが良いかもしれないし。 「そうか? にしても冷えるよなー。俺、飲み物でも買ってくる。いつもので良いよな?」 「あ、だったらあたしも。出店でたこ焼きでも買ってくるわ」 私に場所の確保を任せて、二人はさっさと別方向へと行ってしまった。私を残していくんなら、せめて何味がいいとか要望くらい言わせて欲しかったんだけどなあ。 「どこがなんでもないのさ」 「うひゃっ!? ……あ、すみません」 不意に三ヶ所も服の裾を引っ張られて変な声が出た。おかげで周囲の人々から無言で睨まれてしまった。それに頭を下げてから声のした方向へ視線をやれば、色マフラーの群れ。 赤白黄色のチューリップを連想させる三人組がいた。陽介に耕司に智佳。 「なんでこんな時間にうろついて……あ。ひょっとして、家族の人とはぐれた?」 「違うよー。チカたちね、肝試しやってるの」 「父さんたちにはユリ姉と一緒に行くって出てきたんだぜ」 「うん。意外とユリちゃんは信用されていたんだね」 「それはどうも、っていや私だって保護者がついてるべき立場なんだけどな」 何かあったときは他人に助けを求めるくらいしか出来ないよ? そんなのに任せていいんだろうか。そもそも、保護者同伴だろうとこんな時間にまで夜中の神社にいさせちゃいけないだろうに。いくら冬休みだからって夜更けまで小学生が起きてたら駄目だって。 「まあ、この神社人がたくさん来るから大丈夫だって」 「そうそう。こんな時にユーカイハンなんて現れないよ?」 「いや、人が浮かれてるときだからこそ現れるもんなんだってば」 あーもう、この子らの認識の甘さは仕方ないにしても親がしっかりしようよ。でも、そのことをこの場でこの子らに言ってもしょうがないしなあ。こういう場合には、やっぱり。 「じゃ、三人で手を繋いでいよう。そうすれば一人で迷子になったりしないから」 「あれ? ユリ、どうしたんだそいつら」 「あーっ、あんたヨースケにチカ! 久しぶりねー、元気にしてた?」 礼二と桜花が私の下まで戻ってくるとすぐに除夜の鐘が突かれ、参拝客が俄に活気づいた。今年の年明けは、もう幕を上げてしまったらしい。私は年下の面倒見で、桜花はたこ焼きを摘みながら、礼二は缶コーヒーを抱えこんで。 でもなんだか、私たちは周囲の空気から取り残されてしまった気がする。場所を確保していた意味も消失した。礼二と耕司は何故か目が合ってから互いに逸らさずにいるし。 桜花は陽介と智佳については覚えがあるらしい。近所に住んででもいるんだろうか。 私を中心にしているようで、物事は私と関係のない所で進行していくのであった。 「わあ、さくちゃん! ひどいよー、なんで最近遊んでくれないの?」 「こっちも忙しかったのよ、ごめんごめん。正月にでもうちに来たら相手してあげる」 「マジで? オーカ、新しい格ゲー買ったんだろ。しに行っても良いかっ」 「はいはい。うちのリビングに友達連れ込んでやればいいわよ」 「チカもやるー! でねっさくちゃん、チカが勝ったらお年玉ちょーだい!」 「あっズリぃぞチカ! オーカ、だったら俺もそれがいい!」 「あたしはあんたらの財布か! 勝ったら金をやるなんて誰が言ったのよ!」 なんか、神社にいるっていうのにお構いなしに騒がしいなあ。こんなとこでわざわざ煩悩を炸裂しなくたって良いのに。去年も新年早々、礼二と桜花の言い争いを抑える役回りだったけど、今年もそうなりそうな予感。というか、私が止めないと終わりそうにない。 「ちょっと、三人とも。静かに……」 さっきから他の参拝客が迷惑そうに私たちを迂回して賽銭箱まで歩いている。せめて、道の脇にまで移動しないと。桜花の背中に手を伸ばそうとして、その袖を掴まれた。 「どうしたの耕司、人見知り? 礼二なんか怖くないよ」 「ユリちゃん。この人が前に言ってた友達?」 うん、そうだけど。それがどうかしたの、と答えると何故か耕司は私の親指を握る。 何で親指だけ? 私と礼二が怪訝な顔をしていると、耕司は誰にともなく呟いた。 「阿国さんが守りたかった物は知らない。でも、戦士はきっと大事な人を守りたかった」 「オクニさん? それ、誰よ」 それとなく名言っぽくはあるけど、何でそんな話が? しかも哲学的思想だなあ。 「んなのはどうでもいい。お前、ユリから離れろ」 「は? 礼二も何言ってんの。突っ込むべきはそこじゃないと思うのは私だけ?」 もっともな言い分だよね、私の言葉は。それなのに、何故か礼二はむっとして耕司は滅多にない笑顔を見せた。どうも、二人は相性がよくないらしい。どっちも普通は受けがいいはずなんだけどなあ。男同士の静かな対立の横では桜花たちが騒々しくしている。 なんとなく、この八幡神社の裏手に咲いていた曼珠沙華のことが頭に浮かんだ。連想されるのは死人。 今この時の私を、曾祖父と曾祖母が彼岸から見ていたらどう感じるのかな。 煩悩まみれのこの瞬間をも、平和な時代になったと笑ってくれるだろうか。 |